渋沢栄一記念財団 実業史錦絵絵引

実業史錦絵・絵引について - 絵引は作れぬものか

絵引は作れぬものか

渋沢敬三(1896-1963)

渋沢敬三(1896-1963)

渋沢敬三著『祭魚洞襍考』(東京 : 岡書院, 1954.09) p.616-621掲載

字引と稍似かよつた意味で、絵引が作れぬものかと考えたのも、もう十何年か前からの ことであつた。古代絵巻、例えば信貴山縁起、餓鬼草紙、絵師草紙、石山寺縁起、北野天神絵巻等の複製を見て居る内に、画家が苦心して描いて居る主題目に沿 つて当時の民俗的事象が極めて自然の裡に可成の量と種目を以て遇然記録されて居ることに気が付いた。柴垣や生垣の数々、屋台店の外観や内部、室内の様子、 いろりの切り様、群衆のうなじの髪の伸び様、子供の所作のいくつか、 跼 ( うずくま ) り方、 洗足 ( はだし ) と履物、貫頭衣、飼猫が異る絵巻に二つ描かれて居るが何れも現代の犬の様に頸に紐があつてどこかに繋がれて居る様子、蒸し風呂の有様、お産 の状況、捨て木(紙の貴重な時代排便後に用いるもの、今でも辺鄙な所で見かける)が京都の大路でも用いられて居る有様、足で洗濯するやり方(奥州八戸在銀 の湧水泉では娘さん達が集つて足で洗濯物をふんで居る)会食時の光景又は売店には明かに茄子やかぼちやが描れてあり魚類も多少は何だか見当のつくものもあ る。たすきや前かけのない時代の労働時に於ける着物の始末、破れかけた壁にはこまいが顔を出し、液体容器の各種も曲げものが多いこと、かんな以前で刀子で 板を削って居る様子、頭上運搬の種々相、米俵の恰好、へつついの型、畳の始源的形態、屋根の諸形式、鍬、すき、なた、のこぎり、ちようなの様子、看病の様 式、手紙とその伝達、川漁に於けるやな装置の有様等々限りない各項目が、主題目の筆とは別に眼に入つて来る。何れも画家が当時嘱目した事象を率直に描いた もので、主題目よりも更に気楽に写生してある。貴重な絵画記録資料で而もそのクロノロジカルな点で満点である。そこで何とか之等の資料を番号でも附して抽 出して参考資料にならぬものかと、かなりの間とつおいつ考えて居たが、たしか昭和十五年頃からであつたろう、画家で且つ民俗学者である橋浦泰雄さんに交渉 して、絵巻物各種を一巻一巻丹念にアチック同人で検討してはその決定に従い同君にブラックアンドホワイトで一つ一つ複写して頂くことにした。画家丈でも又 民俗学者丈でも一寸都合が悪い。両方を兼ねる点で橋浦さんはうつてつけの方であつた。何回か会合して注文し、出来上るにつけて之をキャビネ判の印画紙に写 し、それを土台として之に細かく番号をつけた。着物に、帯に、履物に、持ち物に、猫に、茄子に、柴垣に、舟又はその附属品にと云つた風に。各絵巻毎に主題 前後の脈絡は考えず、更に一般の景色や、貴族、僧侶、上流の軍人等の文化等絵巻の主眼点を省略し美術的観点を度外視した、凡そ常民的資料と覚しきもの丈を 集め、一定数毎に印刷し之に前述の通り番号を附し巻末に、近代的名称による分類によつて対象物を羅列し当該番号を示した索引をつける構想にほぼ定めた。古 い時代の名称のわかるのもあるしわからぬものもある故履物の部を例にとるなら、わらじ類ぞうり類あしなか類と項を分け番号を示して置けばあしなか類はどの 絵巻の何巻と何巻に出て居てその実体がすぐ見られる趣向である。

そして、此が完成すれば、古代絵巻にあらわれた履物全部を一応楽に眼を通し得るであろうし、同時にはだしの場合が非常に多いことも気がつく。又従者が伴 待ちの間にひぜんをボリボリかいて居る様子や、今時の児供にはほとんど見られずお芝居の児役の仕草丈に見る小児の動作等もかなりはつきり把握できる。庶民 の着物も柄合等も丹念に番号をつけたら面白そうである。

近代に入つての絵巻では、古いものが描れてあつても、それは前代の踏襲が多いから信用出来ない故足利以前の絵巻を中心として複製を基に右様の作業を為し つつ逐次刊行して行けばその内には便利なものが出来上るであろうと考えたのである。こんな風にして北野縁起石山寺絵巻絵師草紙信貴山縁起餓鬼草紙、法然上 人絵巻等いくつかずつ原稿が出来上りつつあつた。その内戦時状態が悪化し遂に之の仕事も中断して了つた。その原稿の可成の部分は防空壕に入れて却而焼いて しまうことも起つた。少し残つたのを、戦後会々アチックの出版物を購入の為にわざわざ拙宅迄来訪されたワーナー博士に見せたら大変面白がつて居られた。い つか又之の仕事を再開したいと思いつつ荏苒日を送つて居る始末で自らも不甲斐なく思つて居る。併し此の仕事は民俗学の中でもマテリアルカルチュアの資料と して、クロノロジーを明らかにし、文章のみでは解かりにくい面をはつきりさせる点で誰でもいいから一度は完成して置くと後から勉強する方々の助になると思 う。各絵巻の原本を披見するは云わずもがな、信頼し得る複製を供覧して彼此相検討するにさえ並々ならぬ労力と時間を要する。便利な字引と云うものが出来て 居る世の中に、敢て昔日の杉田玄白先生が字引を手写して苦心された様に一々絵巻物を繰りひろげて遡らないでも用を便ずる絵引があつたらと今でも思って居る。
〔昭和廿九年三月七日記〕